第4章 幼児と里山の暮らし

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内面的幸せと物質的豊かさ

私は昭和32年生まれ。この三水の農村、今大地が建っているこの山々を駆け回り、探検して遊び、暮らしました。そのころは、モノクロの世界で、ほとんどのものが、白黒でした。そして、手作業が基本で、ほとんどのものが、そのできあがり過程を見ることが出来ました。作物、食料、3度のご飯、炊事、洗濯、遊び、など、ほとんど、人間の手が生み出した姿を目の当たりにしてきました。

例えば、ご飯。毎朝、5時頃から、土間の竈に火が入り、大きな鉄釜でご飯が炊かれていました。井戸ポンプから水がでていました。お風呂には、池からバケツで水を汲んできて、薪で沸かしました。時々、金魚が浮いていました。テレビはなかったので、いつも外で遊んでいました。雨に日はどうしていたのでしょう。

今、思い出されることは、白黒の穏やかな時の流れの世界です。日々の生活に必死だったはずなのに、豊かな充実感、生きている躍動感を思い出されます。

電化製品が発達して、炊事、掃除などにかかる時間的負担は、遙かに軽減され、生活の維持にかかる時間が比べものにならないくらい、減ったはずなのに、現代のほうが忙しいのはなぜでしょう。ゆとりと余裕を持たせるために、合理化できる電化製品を発明したはずなのに。

それは、文明機器の導入により、生まれた時間を、目に見えない内的なもの、癒しというのでしょうか、内面の充実感にあたえればよかったのに、高度成長期、その時間を、更に働いて、高度の文明機器を買って、更に豊かになろうという循環で、物の豊かさ、持ち分の多さを求めてきたサイクルに入り込んできたからでないでしょうか。

子供達の育ちの問題、環境問題などは、この悪循環の中から当然派生してきた問題と言えそうです。でも、近年、癒しなどと言うテーマで、内面の豊かさを求める風潮が高まってきたことは、素晴らしいことです。

ここで、考えていきたいことは、内面的な幸せを焦点にあてて、子供達の育ちの環境を見ていきたいことです。現代の子供達と我々の子供時代では、物の豊かさでは比べ物にならないぐらい差がありますが、内面的な幸せ感、ヒトが人間としていきる幸せでは、昔のほうが、はるかにすぐれているように思えます。

だから、今更、昔の生活に戻そう、子供達を原始的環境に戻そう、意図的に体験させようと言う気はありません。原始的体験のノウハウを、災害が発生して、生き抜くために必要だとしていることを目的とする以外は、現実の生活とリンクして考えることは、ちょっと無理な感じがします。

それよりも、原始的な環境には、ヒトがヒトとして生きる自然な姿があり、そのクリエイティブな心、姿勢を楽しむこと、発見できること、汗を流せること、総合的な癒しを享受出来る楽しさがあると思えるのです。それを通じた心、精神の柔らかさが あれば、いいかなと言う感じです。

ヒトがヒトとして生きてきた我々の幼少時代を、この冊子のはじめに紹介した、7歳までの子供の特徴と照らし合わせてみましょう。

幼児の特徴と里山の四季環境

身体器官と脳の形成

これには、汚染されていない自然環境、作物、社会環境が必要であり、そして豊かに生きる人間、素朴なおもちゃ環境も必要でした。 昔の里山には、風光明媚な環境があり、地域、人のつながりがあり、自然の暮らし、遊びがありました。

運動

広い居住生活空間、そして、手作業やリズムにあふれる動きが豊かにあり、人工的な音楽よりも、生の歌声が人から人へ伝えていた時代でした。

模倣

地域的共同体がしっかりしており、隣近所、地域で人間を育てることが自然であり、大人達は、生活と労働の場が一緒だけに、子供達にとっては、大人の生き様を模倣できる場でもありました。皆、純粋に生きていた時代だったような気がします。

感覚器官(触覚・生命感覚・運動感覚・平衡感覚)

有害の物質は少なく、大家族、地域社会の中で、多くの人の手に支えられて育ってきました。その意味で、安全な物に触れ、たくさんの人たちに触られてきたのです。

四季や季節の流れに忠実に生きてきました。季節の味や環境、恵みをそのまま 自然に享受してきました。人工的に、作為的に刺激を求めた環境を作ることなく、生きている実感を日々感じていたように思えます。

豊かな居住、生活空間がありました。晴耕雨読、日の出と共におき、日の入りと共に休むというリズムある生活。24時間快適さを求めて生活することは無縁でした。

地域社会、共同体の人達は、ほとんど親代わりにもなり、皆同じスタンスでつきあえたような気がします。

自然の1員

これは文句なしに、その通りの環境でした。

メルヘンとファンタジーの世界

テレビやゲームはなく、絵本もほとんどなかった時代。林や森で遊び、ままごとを楽しみ、昔話に心をときめさせた時代でした。農作業なども、季節の農事暦中心で、有機的なものが中心でした。このように、科学が、全面にでることなく、子供のみならず、大人もファンタジーの世界を楽しんでいた時代であったような気がします。

科学の追究、進歩は、大人のメルヘンとファンタジーの世界を実現させようと考えてきた過程なのかもしれません。

幼児の四季

幼児の本性を考えた場合、その特性が自然にしかも最適に伸びていく環境が、日本の里山に十分備わっていることをおわかりいただけたでしょうか。

ヒトがヒトらしく生き、人間が人間らしく生活していくことは、自然の流れにそのまま素直な姿勢で、逆らうことなく、立ち向かうことなく、その流れに乗るスタンスが必要です。それが、原始的存在に近い、幼児であればなおさらです。
四季の流れの中での生活を失うことは、子供達にとって大きな危機です。それは

  1. 便利さ、快適さのみの追求の結果、不便、不合理から生まれてくる忍耐、知恵、工夫、器用さ、想像力を失ってしまいます。
  2. 豊富な物の中で、物の大切さ、生命の尊さ、を忘れかけてしまいます
  3. 刺激的な色、音、ゲーム類の氾濫の中で、強い刺激に流され、自然界の優しい刺激や弱者の叫びに反応出来にくくなります
  4. 機械万能、交通手段の発達などにより、汗を流したり、身体を思い切り動かすことが減り、身体的弱さがもたらされてしまいます。
  5. 学歴社会、能力尊重主義の中で、人間の価値を見失い、自分で自分を管理するのでなく、他人、時間に管理され、みずからの自由を失いかねます。

子供の成長は、1つの種が土の中で育まれ、水・空気・光の力の中で成長し、世話をして実を結ぶ植物の姿そのものだと思います。そのために、健全な社会環境(土)、美しく澄んだ豊富な自然環境(水・太陽・山林など)、そして、地域文化(人々)が有機的に結びつく中で、生活していくことが必要になってきます。

私たちは、その環境を実現すべく、ここ大地にそれを求めて、活動しております。その幼児達の姿は、まさに喜喜としており、当たり前の発達年齢時に、当たり前の環境を与えることの大切さ、重要さを教えてくれます。奇をてらったり、刺激的なことは、むしろ、私たち大人が幼児の楽しむ弱い刺激に我慢出来ずに、与えてしまう、大人の弱さにあるような気がします。